<   2008年 02月 ( 89 )   > この月の画像一覧

牛乳豆腐

 小腹がすいたので、ごはんにあらず、おやつにあらず、ですが。「牛乳豆腐」はロング紙パックの牛乳を飲みきれないときに、ときどき、つくります。料理上手の友だちから、レシピを教えてもらいました。

 牛乳を沸騰しない程度にミルクパンで温め、レモン汁か酢を加えてかきまぜます。そうすると凝固しますので、ガーゼやキッチンペーパーで漉して、しばらく置いて水気を切ります。市販のカッテージチーズよりも、やわやわで軽く、フレッシュで繊細で、どちらかというと、おぼろ豆腐みたいです。
c0145183_17163071.jpg

 はちみつやバルサミコをたらしてスウィーツに。刻みネギやわさび醤油を添えると、おつまみに。レタスサラダのトッピングなどにも。
by green-field-souko | 2008-02-29 17:23 | とるに足らないモノコト | Trackback | Comments(4)

とっても濃い豆乳

 100円野菜でみつけた地元産の豆乳。大手メーカーの豆乳よりだいぶ割高ですが、それだけの価値があるようで、すぐに売り切れてしまうようです。

 ものすごく濃くて液体の大豆という感じで、コンソメキューブで味をつけて加熱すると、とろりとしたポタージュスープそのもの。あたためると表面に張る膜、湯葉が2、3度とれます。

 あたためて、すりおろした生姜とはちみつを入れて、お昼ごはんにしました。
c0145183_15573975.jpg

by green-field-souko | 2008-02-29 15:59 | とるに足らないモノコト | Trackback | Comments(2)

玄米海苔巻き

 ここ数日、ちゃんと食べる閑がないままだったせいか、おなかがすいて目がさめました。冷蔵庫に、炊いた玄米、納豆、しば漬けがあったので、ごく簡単な海苔巻きに。

 海苔巻きなんてめったにつくりませんので、毎回、手が慣れないまま、ちっとも上手になりません。今日のも、なんだか、ほどけそうな仕上がりで、おはずかしい。

 ブラインドを上げたら、まぶしい光が、海苔巻きに射しました。こんな明るい陽射しは何日ぶりでしょうか。まるで春のようです。
c0145183_929899.jpg

by green-field-souko | 2008-02-29 09:31 | ときどきプチ野菜料理 | Trackback | Comments(0)

手つぶし打ち豆

 うちのほうでは、「ぶち豆」と呼ぶ、打ち豆。このあいだ、野菜をもらいに行った際、かーちゃんに持たされました。

 かーちゃん、やることないと、孫をおぶって豆をつぶしてばかりいます。前夜から水に浸して、ほどよくふやかした大豆を、石臼の上に乗せ、木づちでトントンつぶします。蔵の中には、いっく~らでも、かーちゃんの畑から収穫した大豆があります。

 打ち豆はスーパーでも売っています。買ってみたこともあります。打ち豆なんて、どれだって同じだろうと思って。でも、ぜんぜん違いました。市販の打ち豆は機械でつぶすのでしょうか。これでもか、というほどペシャンコにつぶされていて、ちょっと煮るとボロボロに崩れてしまいました。一方、かーちゃんの打ち豆は、煮汁を含んでやわらかくふくらみ、元の丸い大豆に戻るものさえあります。つぶすという一見単純な負荷も、機械と人力とじゃ、豆の受ける影響、ダメージがまったく違うようです。

 燃料屋さんとか、行商さんなんかが、用事にくると、「ぶち豆だかねー、懐かしいねー」「おらにも、ちっと、やらせてみてくんねかねー」などと喜んで豆を打っていきます。ちょっとしたイベントみたいな盛りあがりです。そして、ひとつかみの打ち豆をビニール袋に入れてもらい、いい齢をしたおじさんが、お駄賃をもらった子どもみたいにして帰っていきます。
c0145183_6484657.jpg

by green-field-souko | 2008-02-29 06:58 | 畑でわたしは考える | Trackback | Comments(2)
 帰りはラッシュの渋滞

 ちょっと くたびれ

 に しても
 アイツはちーーーっとも学習しないな
 一ケ月の猶予がありながら なぜ
 たった一つのスケジュールを抑えられないのだろうか

 あの大手会社の採用基準は
 なんなんだ

 10回以上も同じポカ
 ふざけろ
 もう たすけてあげたくなくなった
by green-field-souko | 2008-02-27 18:43 | 日々の照り降り | Trackback | Comments(0)

ねむぅ

 風があたって、どこから落ちて砕けるのか、

 ぱりん、ぽき、凍った雪の小さく乾いた音がする。

 さむいなあ。ストーブ、点けておけばよかった。

 
 起きなくちゃ。あまり寝てないけど。

 世間が動き出す前に、あれと、これと、3つくらいやらないと。

 
 あと5分。だめ。

 はやくコーヒー淹れないと。間に合わなくなる。
by green-field-souko | 2008-02-27 04:31 | 日々の照り降り | Trackback | Comments(2)

野菜コンソメ

 キャベツとじゃが芋を煮だした、なんの味も付けていないスープです。

 あまり、なにも、食べたくないときに。
c0145183_356872.jpg

by green-field-souko | 2008-02-27 03:59 | ときどきプチ野菜料理 | Trackback | Comments(2)

食べるのネガポジ

 食べる、という行為に、ある種のあさましさを見たのは、12歳の春だった。

 斎場の控え室で。お葬式は、よく遊んであげていた、4歳下の隣りの女の子だった。こんなことがあるのだろうかという不慮の事故。たいして列車など通らない、田舎の単線の踏切を駆けて渡りかけたところに、急行列車がきたという話だった。

 女の子は、棺の中で、どうみたって眠っているようだった。死を受け入れろったって急には無理だ。実感がわかず、泣けるまでに至れない。女の子が死んで、焼却炉で燃やされ、お骨になるのをみんなして控え室で待っているという現実は、薄ぼんやりとした、わるい夢の中に置かれたように思えた。

 周りが号泣していても、わたしは泣けない。頭の中で、女の子の声や、笑った顔を思い出していた。何度も勧められて、やっとのことで、お茶をひとくちだけ飲み下した。お茶を淹れ替えてくれながら、親戚のおばさんは、女の子の生前のお礼を言い、叫びながら泣いた。そして、すぐに、塩むすびをほおばった。べつのひとは、おまんじゅうやおせんべいを、口へ運んでいる。

 だれが死のうと、生きている者は生きるために食べる。食べ続けなければならない。食べるという本能と行為、食べる人間の姿というものは、なんて醜いのだろうか。だれだっておなかはすくし、食べなくちゃ仕方ないのはわかっていても、どこか許せない気がした。

 いま、こんなふうにして、〝食べるのポジ〟で野菜料理なんかもUPしているけれど。ときおり、〝食べるのネガ〟を考えてしまう。だれかとごはんを食べるのは、いまも好きではない。とりわけ元気のないときなど、あさましいであろう自分の食べる姿を、あの日の塩むすびに重ねてしまうのだ。
by green-field-souko | 2008-02-26 08:29 | 日々の照り降り | Trackback | Comments(4)

コツコツと

 作業を速く終わらせる工夫のできない、物理的な時間をどうしても要する仕事は、あまり得意ではない。作業をしていると、茫洋としたものが、目の前に広がって疲れ果てる。いやな仕事は一気に片づける。が、無効なのだもの。

 そうは言っても、仕事はありがたいので、感謝を込めてコツコツやる。無心でやるコツコツ作業そのものは決していやではないし、一つひとつが確実に消化されていく、見える達成感は気持ちいい。

 コツコツ作業をうまくやるこつは、あまり広く見ようとしてはいけないという点にある。むしろ視界をせばめ、小さなミスに注意をはらい、自分の責任じゃないところには気を利かせたりしないでやる。そう、保身、という語があった。

 胃が痛い。こういうとき、ほしいのは、濃いコーヒーと煙草。ちゃんとしたごはんを、こしらえてみても、見ただけでめげる。昨日からフローリングに煙草の灰が落ちて散らばり、片づける気力もなく、なんたる惨状なことか。はあ。

 コーヒー淹れなおそう。
c0145183_7232175.jpg

by green-field-souko | 2008-02-26 07:32 | 日々の照り降り | Trackback | Comments(0)
 あの夜、いまだから白状してしまうけれど、わたしは死ぬ方法をネット検索していた。成功率が高く、世間や身内に迷惑をかけず、あまり苦しくなさそうな方法はないものかと。

 もう、とことん、いやになっていた。すべてが。そのうちの一つには、自分の理性と感情におけるコントロールや、相手との距離をつめるほど、どうしたって見えてくる、あさはかであさましい人間というものを。
 いい齢をしてきれいごとを言うつもりはないが。くだらない(と、わたしの思う)話題に反応して無駄に騒ぐ群れが標準であったとしても、そういうひとたちの姑息なやりくちや生ぬるい連帯感に吐き気がしたし、実際に吐きもした。
 嫌悪や怒りを相手に向ければいくらかラクだったのかもしれないが、そうはできず、おろかにもわたしは自分に向けてしまった。そして、吐く。ひどくナーバスになっていた時期だった。

 そんなことは、まあ、いい。

 あの夜、なにかの拍子に、自殺とは関係のないキーワードで、たまたまアクセスしてしまったのが、そのブログだった。
 文字だけのブログ。ブロガーの彼女は、自分の言葉で、日々の想いをそこにこぼしていた。読み手に理解されようがされまいが関係なく。飢餓する者には沁み込む、深さのあるブログ。それは、だれにも媚びない、彼女の居場所。

 彼女のブログは、彼女のシェルターにも思えた。(のちにわかったのだが、あることで彼女は深く傷つけられ、長いことそれを抱えたままでいた)
 彼女のシェルターは、まるで、闇の中に立つ灯台のようだった。あるいは、夜中の街で一軒だけ、まだ閉めていない店の灯かりのようだった。違うといわれるかもしれないが、わたしには、そう思えた。

 あの夜から、何年、経つのだろう。
 たまにメールを交わすようになっても、わたしたちは、互いの距離のとり方を、おそらくはどちらもとても気にかけている。一行に書かれた意味を、とても考えようとしていると思う。単純や安易を好むひとには、理解されないたぐいの行為には違いない。面倒なひと、と言われるだろう。だけど、それがなんだというのか、単純や安易でくくりたくないものだってある。それが〝大切〟ってものだ。
 「わたしたち似ているところがあると思わない?」そう訊いたら、彼女は、笑いながら、あるいはムッとしながら否定するだろうか。今くらいを大切にしたいので訊いたりしないけどね。
by green-field-souko | 2008-02-25 15:17 | 日々の照り降り | Trackback | Comments(2)